天台宗の祈願寺として僧八玄破により宝徳元年(一四四九)に現在地の西五百メートルの堂平の地に開かれ、正保年間に現在地に移った。
承応二年(一六五三)真慶寺二世閑説大和尚が禅苑として再興してより真慶寺の末寺となった。昔時は上伊那巡礼の札所で「ありがたき恵みあいあう薬師てら瑠璃の光は幾代へぬとも」という詠歌が伝わっている。本尊は行基菩薩刻と伝わる秘仏で木彫立像である。六十年毎に開帳行事がなされてきた。また、目の薬師として参詣が多かった。前立薬師如来及び脇侍薬師十二神将軍を祀っている。
境内が中央道用地となったために景観は一変したが、昭和四十七年に本堂を新築し行持を継続している。当寺の本尊は開帳時以外は西方を向いている(本堂正面からは背面を拝む)。これは昔時、馬に乗ったままで尊前を通った人々がしばしば落馬したことからその霊験ただならぬことを畏れて背面にされたという。又、織田の武士が堂内に乱入し丸柱を斬りつけたところ、刀が食い込んで抜けなくなったという霊験譚も伝わっている。
六十年毎に御開帳をし、二〇〇二年に半開帳を行ったので、二〇三二年に本開帳を厳修する。寺宝は、青銅鏡・山号額(郡長金井之恭書)・俳句額(呉竹園凌撰)・持国天像(鎌倉時代)・十二神将像等である。